2006年6月、日帰りで福井県・敦賀市と三方五湖を訪ねた。目的は芭蕉「奥の細道」の足跡をたどることであった。芭蕉は、延々と東北から北陸を歩いてきて、長旅の終盤に敦賀に逗留をする。
北陸道敦賀インターを降りるとすぐに気比神宮の赤い大鳥居が目に留まる。神社の前を右折して正面が敦賀港である。公園として整備されており、無料の駐車場に車を停めて、市内を歩いて回ることにした。
港で真っ先に目に入るのが赤煉瓦の倉庫。1905年紐育スタンダード石油会社によって建造された。港の公園に再現されているのが旧敦賀港駅舎。敦賀は港町らしい洋風なレトロ建築が多い街だ。
ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人の命を救ったとして杉原千畝という日本人がいたが、その際に難を逃れたユダヤ人たちが敦賀港に到着し上陸したという歴史を持っている。人の生命と民族の尊厳を考えさせられる。今日もなくなってはいない民族紛争、一方の理屈や自分だけに通用する価値観の主張では出口が見つからない。
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巡視艇と敦賀港 |
金ケ崎の赤煉瓦の倉庫 |
旧敦賀港駅舎 |
●道は広いが人がいない |
港沿いの通りの一角に芭蕉の句碑がある。西へ進むとレトロな倉庫群があり、きらめき港館の前を南へ曲がるとメインストリートと思われる相生町商店街がある。
道幅は広く、両側の歩道には立派なアーケードもついているが、休日の昼間というのに人通りがない。通りの端から端までの中で歩いているのは私と、はるか前を往く高齢のご婦人一人。まるでゴーストタウンにまぎれ込んだようだ。
レストランうめだの前の歩道に、芭蕉が逗留した出雲屋跡の碑がある。 アクアトム(海の科学館)前の交差点を東へ折れると正面が気比神宮である。芭蕉も参拝した神社、ひときわ目立つ朱塗りの鳥居は、日本三大鳥居の一つに挙げられている。
川沿いの道を港に戻ると、住宅街に囲まれた船溜まりにさしかかる。水面は凪いで鏡のようになり、船の出入りもなく、静謐な空間になっていた。
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芭蕉ゆかりの気比神社 |
日本三大鳥居の一つ |
静かな船溜まり |
●色ケ浜で出会った白い猫 |
一回り歩いた後、車で移動。気比松原を通り抜ける。日本三大松原の一つ、夥しい松の木が繁茂しており、松の木しかない。
市街地から10kmばかり海岸線を行ったところに色ケ浜がある。古くは「種(いろ)の浜」と呼ばれ、西行法師の歌枕の地でもあり、芭蕉も奥の細道の紀行で立寄っている。
山が海に迫り平地が少ないところに、民宿と古びたお寺、お堂が建ち並ぶ。典型的な海辺の集落であった。民宿ではマリンスポーツを楽しむためのダイビングスーツを着た客が出入りしている。
本隆寺の前で白い猫と出会った。声をかけて呼ぶと擦り寄ってきた。首輪があるので飼い猫であろう。都会に比べて猫ものんびりしている。やがて猫は、二基の芭蕉句碑と本堂の間を通って消えていった。有名な史跡であろうがなかろうが、猫にとっての日課、いつもの通り道に過ぎない。
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気比の松原 |
色ケ浜の集落・左が本隆寺 |
色ケ浜の砂浜 |
芭蕉句碑「寂しさや 須磨に勝ちたる 濱の秋」 |
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イカ釣り船から海岸を望む |
白い猫と出会った |
色ケ浜の小さな社 |
小さな花々が足元を飾る
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●縄文時代は平和の時代 |
敦賀市からの帰路、西へ移動して三方五湖に立寄った。最初に訪れたのは鳥浜遺跡に併設された三方町縄文博物館である。縄文遺跡の発掘地に再現された建物と展示館で成り立っている学習施設だ。
展示物は、遺物よりもパネルによる解説が多かったが、縄文時代がどんな時代であったのかがイメージしやすいものであった。そこに描かれていたのは、われわれが先入観で想像するよりもずっと食べ物に恵まれた豊かな時代であったこと、土器に穴を開けて補修した跡があることからテクノロジーも思っているよりは進んでいたであろうこと、稲はすでに大陸から渡ってきたいたが縄文人は他の食べ物で満足して稲作を拒否したことなどである。特に感心したのは、縄文時代はどれだけ掘っても人が人と戦うための武器が出てこないこと。つまり、戦いのない平和の時代だったのだ、。
三方五湖にさしかかると、あいにく天候が恵まれず、曇り空で遠望もきかなくなった。せっかくの展望がかすんでしまったのは残念。
湖はそれぞれの成り立ちが微妙に違い、湖水の色も違っている。湖畔の店で名物のイカ丼を食べて敦賀路を後にした。
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三方町縄文博物館 |
鳥浜遺跡に再現された縄文住居 |
三方五湖の一つ:久々子湖
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