春の丘 鏃に討たれた 骨の跡――福岡〜伊都国、奴国、邪馬台国を求めて
金印出土地点より博多湾を望む 岡本須玖遺跡と奴国の丘


●邪馬台=飯塚説の行方

 2006年のGWに九州各県を巡った。福岡へは5月3日の早朝に関門を渡る。第一目的地桂川町の王塚古墳であった。
 かつて松本清張氏の本を読み、邪馬台国に興味を持った時期がある。他の時代の歴史と違って、古代史は定説のない部分が大きく、その分素人の邪馬台論争参戦も多かった。自分の出身地こそ邪馬台国の所在地と主張する人も後を絶たない。いずれにしても、証拠文献が魏志倭人伝しかなく、それが報告・距離が矛盾なく比定されるところがないというところに百家争鳴を生む原因がある。
 私が最初に考えたのは四国・東予説であった(ちなみに私の出生地は今治市)。それは、現在分かっている国である末櫨国・伊都国・奴国の方角の記述が約45度ずれていることから、「東」と記しているのは北東、「南」は南東であることを推論した。奴国(春日市あたり)から北東の関門海峡が投馬国、そこから南東に水行した先は四国に行き当たる。霊峰石鎚を仰ぎ見る神秘の土地こそ、宗教上の共立の女王・シャーマン卑弥呼の都にふさわしいと考えた。
 ところが、この説は机上の論理で、出土物などの物証が弱いという致命的な弱点があった。そこで、後に第二の説・飯塚説を考えた。
 方角の考え方は上記の通りだが、投馬国を福岡県遠賀川河口あたりとし、水行は遠賀川の遡行として飯塚あたりを邪馬台国所在地とした。弥生土器では板付式と並んで遠賀川式土器が二大勢力圏を持っており、経済上の中心地・奴国に匹敵するクニが存在した物証は充分である。「不弥国」としては近隣の穂波町が考えられる。
 ただし、これも一度も現地を見ずして推論したので、今回どうしても飯塚を訪れたいと思っていた。実際に見た遠賀川は、現在の水量から想像すれば舟が上がってくるのに支障はなさそうで、遺跡としては桂川(けいせん)町の駅近くの住宅街の中に装飾古墳として知られる王塚古墳が、その存在感を示してる。これが三世紀の墳墓であれば卑弥呼の墓と言いたいところだが、もっと時代が下がって6世紀頃ということだった。
関門海峡大橋 魏の使者もこの関門海峡の向こうに興味を持ったに違いない 二大文化圏の大動脈だったと思われる遠賀川(飯塚市内)
      
王塚装飾古墳館前から見た墳丘 王塚古墳 墳丘の周囲は住宅地



●埋もれた金印の謎

 飯塚−桂川町から博多に出て海の中道を通り志賀島をめざす。「漢の倭の奴の国王」の金印の出土地である。海の中道は、沖合いに浮かぶ志賀島に向かって細く延びる砂州で、湾の内側は穏やか、玄界灘に面する外側は白波が立っていてサーファーが興じている。
 志賀島で、博多を望む(つまり奴国の中心部を望む地点)海岸沿いの道路のすぐ上に金印公園がある。発見者の農夫によると、金印は人工的な石囲いに収納されるように埋まっていたとのこと。流失して埋まったのではなく、人為的に格納された証左だ。ただ、これが隠匿なのか祭った行為なのかは謎を呼ぶ。
 奴国の権力者の証であれば首都の官邸に置くはず。何らかの内乱を逃れ外敵に渡るのを防ぐために隠匿したという説が前者。あるいは島自体が宝物殿的な神聖な場所と考え、丁重に祭った(その場合はおそらく厳重な警護の兵が常駐したのだろうが)というのが後者。
 いずれにしても、金印公園の場所から海の対岸に奴国が見えることが暗示的である。
海の中道の砂州から見た志賀島 金印の碑と博多湾 金印公園下の海辺より奴国を望む

●つつじ咲く 奴国の丘の 甕棺墓

 志賀島から博多に隣接する春日市へ、いよいよ奴国の中心地をめざす。この日は博多どんたくの初日とあって、市内の渋滞を避けようと高速に乗ったのだが、その高速が大渋滞で時間ロスをきたす。これはあとの佐賀県の行程に影響を及ぼし目的地の一つ・本州最西端到達を逸することになった。
 春日市では、ほとんど市街地化されて面影はないのだが、緩やかな丘陵地で、弥生時代の都市に好適な土地のアンジュレーション。岡本交差点を曲がり標識に従って奴国の丘資料館に到着する。
 この奴国の丘は岡本須玖遺跡の一部を保存した公園と資料館で構成された施設。公園のヒルトップには白いドームがあり、その中に出土した状態の甕棺墓が保存されている。
 天候は快晴、汗ばむほどの陽気だったが丘を吹き渡る風が心地よい。資料館は駐車場・入館とも無料だった。
 遺跡の後は糸島半島方面に向かう。ここは伊都国のエリア。海岸から見た糸島半島は、魏国の使いが見た倭国の光景を髣髴とさせる。

      
奴国丘資料館 奴国丘公園:白いドームは甕棺墓の保存用 ドーム内部:甕棺出土状態
資料館前は花盛り かつての伊都国・糸島半島遠景 魏の使者も見たであろう広葉樹の森