土壁は 撃たないように 雨が降る ――石川県金沢〜倶利伽羅ケ谷〜能登金剛〜那谷寺〜山中温泉
金沢市長町武家屋敷 那谷寺 奇岩遊仙境


●芭蕉ゆかりの街――金沢の雨風景

 2006年7月16日〜17日、石川県を旅した。松尾芭蕉の奥の細道に由来する倶利伽羅峠、金沢市、那谷寺、山中温泉を訪れることと、加えて能登半島の海岸線にも足を延ばした。
 宿泊地は金沢市内、生憎の雨であったがまず向かったのは長町武家屋敷跡界隈。土塀が独特の街の色をつくり出していて、石畳が降り止まぬ雨に濡れて光っている。
 この一帯は加賀藩士の屋敷跡が多く残されていることから注目され、現在はよく整備された観光地となっている。近くにある交差点に芭蕉の記念碑があり、「芭蕉の辻」と呼ばれている。
 芭蕉は奥の細道の旅で、旧暦7月15日に高岡より倶利伽羅越えを経て金沢に入った。再会を楽しみにしていた小杉一笑が亡くなっていたことを知り落胆する。
 次に、兼六園に向かった。坂道を登り桂坂口門を入ると、柔らかな苔の広がる庭園が目に入る。さすがに兼六園は敷地も広く出入り口も七箇所ある。日本三名園のひとつ、加賀百万石の文化を象徴する廻遊式の庭園である。
雨の中、石畳の長町を歩く 土壁の並ぶ長町武家屋敷跡 芭蕉の辻の石碑
兼六園・霞ケ池 兼六園・根上りの松 水路と菖蒲の葉

●奇策「火牛の計」の舞台となった倶利伽羅越えの地に至る

 富山と石川の県境に倶利伽羅(くりから)ケ谷がある。険しい谷の斜面に山越えの旧道があり、現在は源平ラインと呼ばれる自動車道と峠越えの遊歩道にその痕跡を残している。源平合戦の際に、信州で兵を挙げた木曽義仲は京都を目指して北陸道を進んだ。向かえ撃つ平維盛軍と倶利伽羅山で激突する。
 数で劣勢の義仲は牛の角に火の点いた松明をつけて道に放つという奇策「火牛の計」をもちいたという。平家の軍勢は、炎とともに突進する牛の襲撃に耐え切れず地獄谷へと落ちていったという。
 現在の倶利伽羅ケ谷は遊歩道が整備された公園となっていた。古戦場跡の碑と、松明を付けた牛のモニュメントが設置されている。
 次に、松尾芭蕉は行かなかった能登半島の海岸線をめざした。長い長い砂浜が延々と半島へと続く。やがて道は山越えとなり、深い緑の山々を縫うようにして海岸へ突き当たると、山塊が波に削られて、見るからに荒々しい断崖を形成している。能登金剛厳門へ到着すると、観光地らしい施設が集まっており、遊覧船も出ている。
 松本清張はこの岩壁の風景を小説に取り入れて「ゼロの焦点」の舞台とした。海岸を見下ろす遊歩道の脇に、清張の歌碑が建てられていた。
      
倶利伽羅ケ谷付近の棚田 不動寺 源平合戦慰霊の地の碑 奇策・松明を付けた牛のモニュメント
      
能登金剛・厳門 厳門より外海を見る 鷹ノ巣岩 松本清張の歌碑

●奇石さまざま那谷寺(なたでら)と山中温泉を追体験

 小松市まで戻り那谷寺を訪れた。市内部からは離れたのどかな場所にあり、周囲の村落も含めて芭蕉の旧跡にふさわしい。
 古くて立派な山門をくぐると自然林のような樹木が鬱蒼と繁茂する静寂な境内に入る。平坦な石畳の参道を真っ直ぐ進むと、芭蕉も感嘆した「奇岩遊仙境」が現れる。
 太古の噴火の跡が長年に侵食されて、この岩が出来上ったという。天然の岩の下に池を配して、さながら観音浄土補陀落山を思わせる庭園に取り込まれている。芭蕉はこの岩を見て「石山の 石より白し 秋の風」と詠んだ。
 帰途、山中温泉に立寄った。奥の細道の紀行で芭蕉は山中温泉に投宿し、「山中や 菊は手折らじ 湯の匂い」と詠んだ。
 温泉街の中心地に、山中温泉の象徴的な湯屋である「菊の湯」があり、外湯として入浴した。浴槽は深く、湯量はたっぷりとある。お湯は透明だった。夕方だったので外湯に入りに来る宿泊客で浴室はにぎわっていた。加賀路を後にする頃になってようやく雨が止み、厚い雲の陰りが夕闇へと移り変わろうとしていた。
      
那谷寺 山門 奇岩遊仙境 石山の石より白し秋の風 参道より山門を見る★拡大
山中温泉 菊の湯 山中温泉 鶴仙渓 山中温泉 こおろぎ橋