新潟の旅は、2005年の連休に山形・秋田を周った旅の帰路の5月5日、芭蕉ゆかりの地・出雲崎と市振(親不知)に立寄ったものである。北陸道を降り長岡市内から広々とした農地を北へ走ると、小高い山地があり、山を越えると初めて海が見える。海岸の狭い土地にびっしりと妻入り屋根が建ち並んでいる集落が出雲崎だ。
「妻入り」とは、通りに面して大棟が直角になっている建築形式で、これが海岸線に沿い約4kmも続き、日本一の長さだそうだ。江戸時代は越後で一番人口密度が高く、多くの人が居住できるように間口(まぐち)が狭くして奥行きを長くしたという。また、当時は間口によって税金が掛けらたからということもあった。全国でも珍しい「妻入りの街並」の散策に訪れる人も多く、街並み景観保存事業も進んでいる。
海岸の中心には道の駅・越後出雲崎天領の里がある。「天領の里」とは、陸路・海路の要衝の地として幕府直轄領(天領)として栄えたことに由来する。このルートは日本海夕日ラインと名づけられているらしく、道の駅の海岸にはいかにも夕日が映えそうな木製デッキが海上へと伸びている。手すりには、若い恋人たちが願いを込めて取り付けていった鍵が鈴なりについていた。
|
|
|
海から見た出雲崎、手前が漁港 |
旧街道の面影が残る |
海上の木製手すりに付けられた鍵 |
●良寛和尚の出生地 |
出雲崎は、良寛の出生地でもある。旧街道ぞいに、良寛出生地の碑があった。いまは防波堤で仕切られているが、かつては荒海が軒を洗うような海浜の集落の家屋であったと想像できる位置にある。
芭蕉はこの地で名句「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」を詠んだ。奥の細道で一番の秀句とも言われるが、長旅もここまでくると、笠は風雨に破られ、宿を所望しても風体を怪しまれて断られるようになっていたらしい。そんな心境の中で、「荒海や…」が生まれたのか。
芭蕉園という表示にしたがって細い道に入ると、住宅の脇のつましい小公園があり、小さな青銅の芭蕉像があった。
また、この地は古代から海面に石油が浮遊する土地で、明治初期には手堀りによる採油がおこなわれた。日本で始めて石油掘削の機械方式に成功した地でもあり、石油産業発祥記念公園には第1号井跡が保存されている。
|
|
|
良寛生誕地の碑 |
出雲崎・芭蕉園の芭蕉像 |
石油産業発祥記念講演の第1号井跡 |
|
●越後 つついし 親不知 |
出雲崎から海岸沿いに西へと走る道は、渋滞もなく鮮やかな新緑に囲まれ、爽快であった。柏崎市を抜けしばらく行くと、それまで平坦で穏やかだった風景が一変する。中央アルプスを形づくる山脈が日本海にぶつかり、海食で鋭く切り落ちたところに、北陸道の一番の難所であった親不知がある。
水上勉の「越後つついし親不知」という本を読んだことがある。冬場に灘へ働きに行く杜氏の村を舞台にしたもので、これ以上はないというぐらい悲惨で暗い話だった。この急峻な土地と厳しい自然環境が水上勉の作風にぴったりする。
今は海岸沿いの崖の中腹に立派な道がついているが、芭蕉の時代は波打ち際を歩くしかなかった。親子の歩行者が高波に遭って、我が子が波間に消えるという悲惨な故事に由来して「親不知」の地名がある。日本で一番悲しい地名ではないか。時代が経って、その地形ゆえに観光名所となり、「親不知ビア・パーク」なるものまである。悲しい地名と楽しいリゾートの融合が何とも言えない。
芭蕉もまた、波打ち際を歩いて市振の宿に至っている。市振手前に、海に面して滝がある。今は穏やかに水を落とす滝も、強風時には岩壁に吹き付ける風で水が下から上へと飛ばされ、逆流する滝になるという。市振は崖と海岸の間の細い平地にできている宿場町で、市振の関跡の碑や芭蕉が投宿した桔梗屋跡の碑が残る。小さな集落には旧街道の面影が残されていた。
|
|
|
|
|
風が強い日は下から上へ上がるという滝 |
市振の関跡 |
市振の旧街道 |
市振の宿桔梗屋跡の碑 |
|