2006年のGWに九州各県を巡った。佐賀へは5月3日の昼に唐津を通り、4日に吉野ヶ里を訪れた。
博多から西へ海岸線沿いを走ると、やがて長い長い砂浜と延々と続く松林が目に入ってくる。唐津市の虹の松原である。私もその一人だったが、唐津市は福岡県の一部のような気がしている人が多い。が、佐賀県は有明海から玄界灘までを占めており、唐津も伊万里も佐賀県に入る。
唐津城に向かう道路は虹の松原の中を進む。長大な砂地の上に数知れぬ松の木が林立する。
予定では呼子、伊万里、平戸をまわって雲仙に向かう予定だったが、連休中のことで道路が渋滞を起こしていたこともあり、唐津から多久へ方向転換し、多久ICから九州自動車道に乗った。長崎県のページに記した通り、この判断によって夕陽を見ながらの会場露天風呂に間に合ったのだが、心残りなことに本州最西端を踏む行程を飛ばしてしまった。今回鹿児島で本州最南端を踏んでいるので(最東端は以前に根室・納沙布岬に到達したことがある)、また一つ課題が残された。
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虹の松原 |
無数の松が立ち並ぶ |
松浦橋から唐津城を遠望 |
●日本最大級の環壕集落遺跡 |
4日は雲仙・島原を廻って昼過ぎに吉野ヶ里に到着した。ICからすぐで、平野の真っ只中にあります。
発見された吉野ヶ里の遺跡が詳細に調査された後、国立の歴史公園として公開されている(入場400円)。
最初に目に入るのは環壕と逆茂木(さかもぎ)。この防衛体制を見ると、外敵は人間であり、クニとクニとの大規模な戦いが想定される時期であったことが実感できる。
入口ゾーン、環壕集落ゾーン、古代の原ゾーン、古代の森ゾーンの四つのエリアに別れている。国立公園・県立公園合わせて58haと広大。環壕集落の中に南内郭・北内郭 (権力者がいたであろう政治の中心地か?)、倉と市(経済の中心地か?)、住居群(生活の中心地?)が再現されている。
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吉野ヶ里歴史公園入口より北内郭方向を望む |
逆茂木と壕 |
周囲を囲まれた吉野ヶ里を再現 |
●圧倒的物証の前に邪馬台国論争の理屈がかすむ |
福岡県のページで記した邪馬台国論争の件の続き。今回の吉野ヶ里遺跡を見たことで、ここが日本最大の環壕集落であること、600年続いたということからしても、弥生時代の有数の国家であったことは想像できる。しかも、周辺の立地条件を考えると、例えば飯塚説の実況見分のために訪れた飯塚や桂川町、穂波町あたりに比べて、吉野ヶ里の方がはるかに開けており、また地理的にも発展性があることを感じられた。
魏志倭人伝の記述からすると方角に難はあるが、奴国から川と陸路を使って吉野ヶ里に向かうことがイメージされる。吉野ヶ里から南方向は湿地とクリークが今在する平原、その向こうは有明海を挟み、クマソ(狗奴国)と対峙する。
そう考えると、飯塚説のように邪馬台国=宗教上の聖地という位置づけから、邪馬台国=経済・軍事の要所という印象が強くなる。 クニを取り囲む壕と柵の厳戒ぶりが当時を彷彿とさせる。
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物見櫓:周囲の平野を見張っていたのか |
物見櫓:柵の外側から見たところ |
連休中は8万人が来場したらしい |
邪馬台国もこんな景色だったのだろうか |
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住居:奥は北内郭 |
住居と櫓 |
物見櫓から倉庫群を見る |
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